警備会社のM&Aでは、警備員の人数、主要顧客、契約継続率、警備業法上の体制、教育記録、事故対応履歴などが確認されます。これらは重要です。しかし、2026年時点で買い手がさらに慎重に見ている論点があります。それが、最低賃金上昇と労務費転嫁を、契約単価、警備料金改定、PMI、企業価値評価にどう織り込むかです。
警備業は人員配置に依存する業務が多く、売上の増減よりも、時給、深夜割増、残業代、社会保険料、採用費、教育時間、欠員補充コストの変化が利益に直撃します。特に交通誘導警備、施設警備、雑踏警備、学校・病院・物流倉庫・商業施設の常駐警備では、契約単価を据え置いたまま最低賃金や採用単価だけが上がると、月次の粗利が短期間で崩れます。M&Aの買い手から見ると、これは単なる労務問題ではなく、将来収益力を左右する価格改定能力の問題です。
本記事では、警備業M&Aにおいて、最低賃金上昇、労務費転嫁、警備料金改定をどのように確認し、売り手の説明資料、買い手のデューデリジェンス、最終契約、成約後100日のPMIへ落とし込むかを整理します。実在企業の個別M&A事例ではなく、制度情報と匿名化したモデル事例を使って、売り手・買い手双方が実務で使える観点に絞って解説します。
今回のテーマが既存論点と違う理由
警備会社のM&Aでは、労務管理の重要性や価格交渉の考え方はすでに大きなテーマです。内部記事の警備業の労務管理がM&Aの成否を左右する理由では、労働時間、勤怠、社会保険、未払残業などの基礎を扱っています。警備会社M&Aの価格交渉で条件差が生まれるポイントでは、買収条件の交渉で何が評価差になるかを扱っています。
本記事の焦点は、それらよりも一段具体的です。最低賃金改定や労務費上昇を、警備契約ごとの採算、顧客への料金改定交渉、価格転嫁の記録、M&A後の賃金改定原資にどう結び付けるかを扱います。労務管理が整っていても、契約単価が更新されなければ利益は出ません。価格交渉が得意な会社でも、最低賃金発効日と契約改定日がずれていれば、買い手はその差額をリスクとして見ます。
また、前回扱った防犯カメラ映像・入退館データ・管制ログの承継や、直近で公開済みの標識・教育簿・備付書類の承継とも切り口は異なります。今回は許認可書類や情報管理ではなく、賃上げ原資を契約とPMIでどう確保するかに絞ります。
制度情報として押さえるべき最低賃金と価格転嫁の現在地
最低賃金については、厚生労働省が地域別最低賃金の全国一覧を公表しています。2026年5月時点で確認できる同ページでは、令和7年度地域別最低賃金額と発効日が掲載されています。警備会社のM&Aでは、対象会社の営業エリア、現場所在地、警備員の勤務実態、最低賃金の発効日、時給者・日給者・月給者への換算影響を確認する必要があります。
価格転嫁については、公正取引委員会が労務費の適切な転嫁のための価格交渉に関する指針を公表しています。同指針では、労務費の転嫁について、発注者・受注者が採るべき行動を整理しています。中小企業庁も価格交渉促進月間の実施とフォローアップ調査結果を継続的に公表しており、毎年3月と9月を価格交渉促進月間として、価格交渉・価格転嫁の状況把握と取引適正化を進めています。
さらに、経済産業省が2025年11月28日に公表した2025年9月価格交渉促進月間フォローアップ調査結果では、価格転嫁率が53.5%、労務費の転嫁率が50.0%に到達した旨が示されています。これは警備業だけの数値ではありませんが、労務費転嫁が中小企業全体の経営課題として扱われていることを示す重要な背景情報です。
警備業界の構造を確認する際は、警察庁の事業統計(警備業)や、警察庁Webサイトの警備業についても確認します。警察庁の令和6年警備業の概況では、警備業者数、警備員数、小規模事業者の多さが確認でき、警備業が人員確保と採算管理の影響を受けやすい産業であることが分かります。

警備業M&Aで最低賃金上昇が企業価値に与える影響
最低賃金上昇は、単に時給を上げれば終わる話ではありません。警備会社では、現場ごとの配置人数、勤務時間、夜勤、休日、待機時間、移動時間、教育時間、欠員補充、巡回頻度、管制対応、制服・装備、資格者配置が契約単価と結び付いています。最低賃金が上がると、直接の時給だけでなく、深夜割増、時間外割増、法定福利費、採用広告費、既存社員との賃金バランス、資格者手当の見直しにも波及します。
買い手が企業価値を評価する際、直近決算の営業利益だけを見ると危険です。直近決算が黒字でも、最低賃金改定後の契約単価が据え置かれていれば、将来の正常収益力は低下します。逆に、直近利益は薄くても、主要顧客と毎年の労務費改定協議ができており、価格改定の記録が残っている会社は、買い手から見て将来の採算改善余地があります。
売り手は、M&A準備段階で契約別の最低賃金感応度を作るべきです。たとえば、顧客Aは常駐2名、月間320時間、時給影響が大きい。顧客Bは日給制だが実質時給換算で最低賃金に近い。顧客Cは資格者配置が必要で、最低賃金より採用単価の影響が大きい。顧客Dは契約書に価格改定条項があり、毎年10月改定の協議が可能。こうした一覧があるだけで、買い手は対象会社の利益耐性を読みやすくなります。
買い手は、正常収益力の補正で最低賃金影響を反映します。買収後1年以内に最低賃金、法定福利費、採用費がどの程度上がるか。契約単価改定が何か月遅れるか。値上げできない顧客の粗利はどれだけ下がるか。欠員により外注や応援が必要になる現場はどこか。これらはEBITDA倍率を掛ける前の利益調整項目です。単に「人件費率が高い」と見るのではなく、契約別に転嫁可能性を評価する必要があります。
売り手が準備すべき労務費転嫁の説明資料
売り手が準備すべき資料は、賃金台帳や就業規則だけではありません。買い手が見たいのは、労務費上昇を顧客単価へ反映できる会社かどうかです。したがって、資料は「労務DD資料」と「価格転嫁DD資料」を分けて整えると効果的です。
労務DD資料には、雇用形態別人数、時給・日給・月給の分布、最低賃金との差額、深夜勤務者数、残業時間、社会保険加入状況、資格手当、交通費、教育時間、欠員補充の外注費、採用費を入れます。警備業では高齢者、短時間勤務者、兼業者、臨時警備員、資格者、夜勤専従者などが混在しやすく、平均時給だけでは実態が見えません。
価格転嫁DD資料には、顧客別契約単価、契約更新月、価格改定条項の有無、過去3年の値上げ実績、値上げ交渉中の案件、値上げ拒否を受けた案件、失注リスク、粗利率、最低賃金改定後の採算見込みを入れます。特に警備契約は、現場ごとに「人員固定型」「時間単価型」「月額固定型」「イベント都度見積型」「公共入札型」などがあり、価格改定の難易度が違います。
売り手が強調すべきなのは、過去に値上げできたという結果だけではありません。顧客にどのような資料を出し、どのタイミングで交渉し、どの範囲で受け入れられ、どの範囲が未反映なのかです。公正取引委員会の労務費転嫁指針では、根拠資料として公表資料を用いる考え方が示されています。最低賃金、統計、業界資料、契約別原価表を使って交渉している会社は、買い手から見ても説明可能性が高くなります。
買い手が見るべき契約別採算のポイント
買い手は、対象会社の売上上位顧客だけでなく、粗利の薄い契約を必ず確認します。警備会社では、売上が大きい顧客ほど人員も多く、最低賃金上昇の影響額も大きくなります。売上上位顧客が赤字化すると、全社利益を大きく押し下げます。逆に、小規模でも粗利率が安定している巡回契約やスポット案件は、買収後の採算を支えることがあります。
確認すべき項目は、契約単価、配置人数、勤務時間、実働時間、休憩、待機、移動、夜勤、残業、資格者要件、欠員時の応援、外注利用、教育時間、装備費、交通費、管理費です。契約書上は月額固定でも、実態として追加要員が常態化していれば、その分の原価を織り込む必要があります。逆に、契約書上は時間単価でも、顧客の承認がないと増員分を請求できない場合があります。
特に注意すべきなのは、最低賃金発効日と契約改定日がずれるケースです。最低賃金は多くの都道府県で秋に改定されますが、警備契約の更新が4月、7月、翌年1月などの場合、数か月間は人件費だけが先に上がる可能性があります。買い手は、このタイムラグを月次資金繰りと利益計画に反映します。売り手は、発効日から改定日までの未回収労務費を見える化しておくと、買い手との交渉が具体的になります。
公共契約や入札案件では、契約変更や単価改定に制約があることがあります。内部記事の施設警備契約を引き継ぐM&Aで失敗しないための確認項目でも触れているように、契約承継の可否だけでなく、契約期間中に労務費上昇をどう扱えるかを見なければなりません。入札案件を持つ警備会社では、次回入札まで価格改定できないリスクと、次回入札で単価改善できる可能性の両方を評価します。
労務費転嫁を前提にしたM&A価格交渉の進め方
警備業M&Aの価格交渉では、売り手は「今期利益」を示し、買い手は「買収後利益」を見ます。最低賃金上昇や労務費転嫁が論点になると、双方の見方は分かれやすくなります。売り手は、価格改定交渉で利益を維持できると考えます。買い手は、値上げが通らなかった場合の下振れを見ます。この差を埋めるには、感情的な価格交渉ではなく、契約別のシナリオを置く必要があります。
たとえば、売上上位10顧客について、シナリオAは労務費上昇の80%を転嫁できる場合、シナリオBは50%、シナリオCは0%とします。それぞれで粗利、営業利益、EBITDA、必要運転資金、採用費を試算します。買い手が慎重なケースを採るのは自然です。一方で、売り手が過去の値上げ実績、契約条項、顧客の理解、交渉記録を示せれば、買い手は上振れシナリオを一定程度評価できます。
交渉手段としては、価格調整条項、アーンアウト、クロージング前の値上げ実行、重要顧客の改定合意を前提条件にする方法があります。ただし、警備業では顧客への説明を急ぎすぎると、M&A情報が漏れたり、契約継続に不安を与えたりする可能性があります。誰が、いつ、どの顧客に、どの資料で説明するかを、NDA、基本合意、最終契約、クロージングの段階に分けて設計します。
買い手は、労務費転嫁が未実行であることだけを理由に過度な減額を求めるのではなく、買収後に自社の営業力や管理体制で転嫁できる余地を評価すべきです。売り手は、将来の値上げ余地を主張するだけでなく、根拠資料と交渉履歴を残すべきです。M&A価格は過去利益だけでなく、買収後の価格改定能力によっても変わります。

顧客への警備料金改定をどう進めるか
警備料金改定は、M&Aの前後で最も慎重に扱うべき実務です。最低賃金や労務費を理由に値上げを求めること自体は必要ですが、顧客から見ると、警備会社のM&A、担当者変更、現場体制変更、料金改定が同時に来ると不安が大きくなります。したがって、料金改定は「値上げのお願い」ではなく、「警備品質と人員確保を維持するための説明」として進める必要があります。
顧客説明資料には、最低賃金の公表資料、対象現場の配置時間、深夜・残業の影響、欠員時の代替コスト、採用環境、過去の単価据え置き期間、今後の警備品質維持策を入れます。公的資料として厚生労働省の最低賃金一覧や、公正取引委員会の労務費転嫁指針を参照することで、単なる自社都合ではなく、社会的な賃上げ・取引適正化の流れとして説明できます。
顧客別に交渉順序も変えるべきです。契約更新が近い顧客、赤字化している顧客、警備品質に理解のある顧客、他社切替リスクが低い顧客から始める方法があります。一方で、公共性が高い顧客、入札案件、建物管理会社を挟む顧客、複数拠点を一括契約している顧客は、説明ルートが複雑です。警備会社の営業担当だけでなく、買い手のPMI担当、旧オーナー、現場責任者が役割分担して進めます。
料金改定の選択肢は、一律値上げだけではありません。配置時間の見直し、夜間巡回回数の調整、機械警備やカメラ監視との組み合わせ、繁忙期単価の設定、契約期間短縮、更新時自動協議条項の追加、資格者配置の明確化、スポット対応の別料金化などがあります。顧客の予算制約が強い場合でも、原価割れ契約を放置しないために、サービス内容と価格を同時に見直す発想が必要です。
最終契約に入れておきたい労務費・価格改定関連の論点
最低賃金上昇と労務費転嫁は、最終契約にも反映できます。まず、表明保証では、賃金台帳、労働時間、社会保険、未払賃金、最低賃金違反、労働紛争、是正勧告、労働基準監督署対応、重要な顧客との価格改定交渉状況について確認します。これは労務DDの延長ですが、最低賃金に近い時給者が多い会社では特に重要です。
次に、価格改定状況に関する開示です。売り手が買い手に対して、重要顧客の契約単価、改定条項、値上げ履歴、交渉中案件、顧客からの拒否、失注可能性を開示したかを確認します。買い手は、開示されていない重要な値上げ拒否や赤字契約が後で判明した場合に備え、補償条項や価格調整条項を検討します。
クロージング前義務として、売り手が特定顧客への価格改定交渉を継続する、買い手の同意なく重要顧客に大幅値引きしない、最低賃金改定に必要な賃金変更を実施する、重要な従業員への説明を行う、といった内容を定めることがあります。ただし、M&A情報の漏えいや顧客不安を避けるため、どの範囲をクロージング前に行うかは慎重に決めます。
クロージング後協力義務として、旧オーナーや旧営業責任者が一定期間、重要顧客への料金改定説明に同席することも有効です。警備会社では、長年の現場信頼が価格交渉を支えていることがあります。買い手がいきなり料金改定を申し入れるより、旧経営者が警備品質維持の必要性を説明し、買い手が今後の運営体制を補足する方が顧客に受け入れられやすいケースがあります。
成約後100日のPMIで最低賃金と料金改定を同期させる
成約後100日のPMIでは、最低賃金対応、賃金改定、顧客料金改定、採用戦略、現場説明を同期させます。これを別々の部署が別々に進めると、現場では賃金だけ上がり、営業では値上げが遅れ、経理では粗利が悪化し、採用では新条件を打ち出せないという状態になります。PMI担当者は、労務、営業、現場、経理を横断して進捗を管理します。
Day 1から10日では、最低賃金発効日、対象者、時給差額、最低賃金に近い日給者・月給者、未反映契約、赤字化見込み契約を洗い出します。ここでは完璧なシステム統合より、危険な現場を特定することが優先です。最低賃金違反を起こさないこと、重要顧客の警備品質を落とさないこと、採用条件を把握することを先に行います。
Day 11から30日では、顧客別の価格改定資料を作成し、交渉順序を決めます。すぐに値上げできる顧客、次回更新時に協議する顧客、契約期間満了まで難しい顧客、サービス内容見直しが必要な顧客に分けます。買い手が持つ営業資料や公的資料を活用しつつ、旧会社の現場実情に合わせた説明にします。ここで現場責任者を巻き込まないと、顧客から具体的な配置や勤務実態を聞かれた時に答えられません。
Day 31から60日では、賃金改定、契約変更、現場説明を実行します。警備員には、賃金改定の理由、今後の勤務条件、資格取得支援、シフト安定化、採用強化方針を説明します。顧客には、警備品質維持、人員確保、法令遵守、現場継続のための料金改定であることを説明します。賃金改定だけ先に伝えて顧客改定が遅れると、採算悪化が固定化します。顧客改定だけ先に進めて警備員への説明が遅れると、現場の不信感につながります。
Day 61から100日では、粗利監査と再交渉を行います。値上げできた契約、できなかった契約、値上げ幅が不足した契約、サービス内容を見直した契約、失注リスクが高まった契約を一覧化します。採用応募数、離職率、欠員率、外注費、残業時間も追います。労務費転嫁は一度の交渉で終わるものではなく、毎年の最低賃金改定、採用市場、顧客予算と連動する継続的なPMIテーマです。
匿名モデル事例:最低賃金上昇で粗利が圧迫された交通誘導警備会社
以下は、実在企業を特定するものではない匿名化したモデル事例です。地方都市で交通誘導警備と施設警備を行うA社は、後継者不在を理由に同業B社への株式譲渡を検討しました。A社は警備員の定着率が比較的高く、建設会社や商業施設との契約も継続していました。一方で、時給者の多くが地域別最低賃金に近く、契約単価は数年間ほとんど改定されていませんでした。
売り手オーナーは「顧客との関係が良いので、値上げは可能」と説明しました。しかし、買い手B社が顧客別に採算を確認すると、売上上位3顧客のうち2顧客は、最低賃金改定後に粗利率が大きく下がる見込みでした。契約書には価格改定条項がありましたが、過去の交渉記録は残っておらず、営業担当者の口頭説明に頼っていました。
そこで、基本合意後のDDで、A社は顧客別の配置時間、賃金影響、過去の単価改定、次回更新月を整理しました。B社は、厚生労働省の最低賃金資料と公正取引委員会の労務費転嫁指針を参考に、顧客説明用の資料を作成しました。最終契約では、クロージング後60日以内に重要顧客5社へ料金改定協議を行うこと、旧オーナーが説明に同席すること、未改定契約についてはPMI計画に反映することを定めました。
クロージング後、すべての顧客で満額改定できたわけではありません。2社は段階改定、1社は配置時間の見直し、1社は次回更新時の協議、1社は一部値上げにとどまりました。しかし、B社は賃金改定と顧客改定を同時に進めたため、警備員への説明と顧客への説明が矛盾しませんでした。結果として、短期的な粗利低下は残ったものの、赤字契約の固定化を避け、採用条件も改善できました。
このモデル事例から分かるのは、労務費転嫁は「できる・できない」ではなく、契約別にどの程度、いつ、どの根拠で進められるかを見える化することが重要だという点です。売り手が事前に資料化していれば、買い手の評価は変わります。買い手がPMIで交渉順序を設計すれば、顧客信頼と警備員の定着を同時に守りやすくなります。
売り手のチェックリスト
売り手は、M&A準備の段階で次の項目を確認してください。第一に、全警備員について最低賃金との差額を確認すること。時給者だけでなく、日給者、月給者、固定残業代、手当込みの実質時給を確認します。第二に、契約別の配置時間と人件費を整理すること。平均人件費ではなく、顧客別・現場別に採算を見ます。
第三に、過去の値上げ実績を資料化すること。値上げできた顧客、できなかった顧客、交渉中の顧客、値上げ理由、提出資料、合意時期を残します。第四に、契約書の価格改定条項を確認すること。最低賃金、法令改正、労務費上昇、業務内容変更、配置変更、契約更新月に関する条項を見ます。第五に、次回最低賃金改定に備えた見積もりを作ること。買い手は、買収後1年の利益を見ています。
売り手にとって最も避けたいのは、買い手から指摘されて初めて赤字契約や未転嫁契約に気付くことです。価格転嫁が未完了であること自体は、必ずしも致命的ではありません。どこが未完了で、なぜ未完了で、いつ交渉でき、どのくらいの改定余地があるかを説明できることが重要です。
買い手のチェックリスト
買い手は、労務費転嫁を財務DD、労務DD、ビジネスDD、PMIの共通テーマとして扱うべきです。まず、最低賃金改定後の人件費を再計算します。次に、契約別粗利を作ります。さらに、値上げ可能性を顧客別に評価します。最後に、クロージング後100日のPMIで、誰がどの顧客に交渉するかを決めます。
買い手が確認すべき質問は具体的です。最低賃金に近い警備員は何人いるか。勤務地の都道府県別に最低賃金影響は違うか。日給者の実質時給は最低賃金を上回っているか。深夜・残業・移動時間の扱いは正しいか。顧客別の契約更新月はいつか。価格改定条項はあるか。過去に値上げを断られた顧客はどこか。失注してもよい低採算契約はあるか。買収後に賃金を上げた場合、採用効果は見込めるか。
買い手は、PMIで一律に自社基準を押し込むのではなく、旧会社の顧客関係を活用すべきです。警備業では、現場責任者、営業担当、旧オーナーの信頼が値上げ交渉に影響します。買い手の管理資料は重要ですが、顧客が納得するのは、現場の継続性と警備品質が守られる説明です。M&A後の料金改定は、数字だけでなく関係性の引継ぎでもあります。
複数都道府県で営業する警備会社の注意点
複数都道府県で営業する警備会社では、最低賃金の影響を本社所在地だけで見てはいけません。警備員が実際に勤務する場所、出向・応援の実態、県境をまたぐ交通誘導、複数拠点の施設警備、イベント現場への応援派遣などを確認します。営業資料上は一つの支店売上でも、勤務現場が隣県に広がっていることがあります。都道府県ごとに地域別最低賃金額と発効日が異なるため、月次の人件費影響も一律ではありません。
たとえば、本社が最低賃金の低い地域にあり、売上の一部が都市部の高い最低賃金地域で発生している場合、全社平均の時給だけではリスクを見落とします。都市部の現場では採用単価が最低賃金を大きく上回ることもあり、法定最低賃金よりも市場賃金が利益を圧迫します。買い手は、地域別最低賃金だけでなく、求人媒体で提示している時給、応募単価、欠員率、派遣・応援コストも見ます。
また、複数拠点会社では、拠点ごとに顧客交渉の強さが違います。本社営業は値上げ交渉ができていても、地方支店は長年の関係で単価据え置きになっていることがあります。逆に、地方支店の方が現場責任者と顧客の距離が近く、丁寧に説明すれば段階的な値上げが通ることもあります。M&Aでは、拠点別の価格改定余地を一枚の全社平均で丸めず、支店別・顧客別に見ることが重要です。
PMIでも同じです。買い手が全国一律の賃金テーブルや営業標準を導入する場合、地域ごとの最低賃金、採用市場、顧客予算、公共入札の慣行、同業他社の単価を踏まえなければ、現場に合わない制度になります。統一すべきなのは、最低賃金違反を防ぐ仕組み、契約別粗利を見える化する管理表、価格改定交渉の根拠資料です。一方で、顧客説明の順序や改定幅は地域事情に合わせて調整します。
避けるべき実務ミス
最低賃金上昇と労務費転嫁の論点で避けるべきミスは明確です。第一に、最低賃金を満たしているかだけを見て、採用市場賃金を見ないことです。法定最低賃金を上回っていても、その地域で警備員を採用できる時給に届いていなければ、欠員や外注費増加で利益は崩れます。第二に、顧客別粗利を作らず、全社人件費率だけで判断することです。赤字契約と高収益契約が混在している会社では、全社平均は判断を誤らせます。
第三に、価格改定交渉の記録を残さないことです。売り手が「毎年話している」と説明しても、交渉資料、メール、議事メモ、見積書、契約変更履歴がなければ、買い手は将来の転嫁可能性を評価しにくくなります。第四に、M&A後の賃金改定を先延ばしすることです。買収直後は現場が不安定になりやすく、警備員が待遇改善を期待する時期でもあります。賃金説明を曖昧にすると、離職や採用難につながります。
第五に、料金改定を顧客への一方的な通知として扱うことです。警備契約は、顧客施設の安全、現場責任者との信頼、緊急時対応、警備員の顔ぶれに支えられています。値上げの根拠が正しくても、説明の順序を誤ると顧客は不信感を持ちます。最低賃金、労務費、警備品質、人員確保、現場継続をセットで説明し、顧客の予算サイクルに合わせた段階改定や業務内容見直しも提案することが現実的です。
これらのミスを避けるには、M&Aの早い段階から、財務担当、労務担当、営業担当、現場責任者を同じ資料で会話させる必要があります。労務費転嫁は、財務だけの試算でも、営業だけの交渉でも、労務だけの賃金改定でも完結しません。警備業では、現場を止めずに賃上げ原資を確保することが、買収後の事業継続そのものになります。
まとめ:労務費転嫁を織り込める警備会社は、買収後も崩れにくい
最低賃金上昇と労務費転嫁は、警備業M&Aの中心論点になっています。警備会社は人員配置に依存するため、賃金上昇を契約単価へ反映できなければ、買収後の利益は短期間で下がります。一方で、顧客別の採算、価格改定条項、過去の交渉履歴、最低賃金影響、PMI計画を整理できている会社は、買い手から見て将来収益力を説明しやすくなります。
売り手は、労務費上昇を不安材料として隠すのではなく、価格改定余地と交渉計画を資料化するべきです。買い手は、未転嫁リスクを減額材料として見るだけでなく、買収後にどの契約を改善できるかを評価すべきです。アドバイザーは、最低賃金、労務費転嫁指針、価格交渉促進月間の公表情報を使いながら、顧客に説明できる根拠資料へ落とし込む必要があります。
警備業M&Aで本当に承継するのは、契約書上の売上だけではありません。警備員が働き続けられる賃金、顧客が納得できる料金、警備品質を維持する現場体制、そして毎年のコスト上昇を話し合える関係性です。最低賃金上昇と労務費転嫁を織り込める会社は、買収後も崩れにくく、顧客と警備員の双方から信頼されやすい会社です。

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